今、レコーディングをし直して、続きの作業をしている曲があります。
その作業を通して、一つ悟ったというか、痛感したことがありました。
それは、神様以外の二心を抱えたままでは、神様への愛に集中できないということです。
私は信仰を持ってからもずっと、祈る時間が足りていなくて、二心を悔い改めることができていませんでした。
神様に急かされたような気がしてこの曲に着手したのですが、その作業を通して、二心がどれだけ神様との関係を邪魔するのかを教えていただいたように感じます。
祈りながら何度も向き合ってきて、神様に見合う作品に仕上げたいのに、どうあがいてもその二心が私の前に立ちはだかるのです。
また、もう一つ、声楽の先生から教えていただいたことの価値を改めて悟ることがありました。
今回の曲の楽器パートをレコーディングした際、様々な障害がありました。
その中でもいちばんの障害は、奏者自身が自らの奏でる音一つ一つに身を捧げていない、心を注いでいないと感じられたことでした。
私にとって音楽は、娯楽ではなく、一生この身を捧げる価値があるものでした。
それは、声楽の先生が、師匠の教えである「音楽とは神聖なものだから、音楽との間には、何一つたりとも入れてはいけない。」ということを教えてくださったからこそです。
体調が悪かろうが、どんな理由があろうが、譜面と向き合う時には音楽と一対一の関係を持つこと。
自分自身を含め、どんな障害物をも音楽との間に置かないこと。
このことを何度も叩き込んでいただきました。
レコーディングならば、自分がどのレベルにいるかは関係なく、その日できる限りのベストのテイクを捧げるつもりで挑む。
それが当たり前のことだと思っていたのですが、奏者とはレコーディング前から心情を削がれるようなやり取りがあり、様々な障害の中、これがベストなのだろうか…?と思うテイクが取れたのみでした。
御心ではなかったのだろうかと心の中で何度も尋ねましたが、その日のレコーディングはそのテイクで終わってしまいました。
その後の作業を通して、二心がある間は、神様への愛に集中したくてもその二心が神様との関係を裂いてしまうのだと悟りました。
今回の出来事を通して、捨てるべきものを示してくださったのだと思いました。
参考記事:
◯RAPT有料記事186(2017年7月3日)私とあなたの間に遮るものが何もなければ、あなたは私の熱い愛をどこまでも強く感じられるようになるだろう。