祈れない、霊的な考えにならない・・・調子を崩した原因について

久しぶりに更新します。

今日はクリスチャン向けの内容です。

この1週間ほど、祈れない、頭が霊的にならないといった不調が続いています。

祈っても10分くらいすると強烈な眠気に襲われ、気付くと数十分経っていることもしばしば。自分のための祈りがだめなら周りの人のために祈ろうと思っても、それも10分くらいしか持たず。聖書を開いても文字を目で追うだけになり頭に入ってこず、RAPTさんの御言葉(音声)だけ何とか聴ける状態。

家族と過ごすと頭がとても肉的になってしまい、そこから霊的な考えに戻せず、そのせいでイライラして子供に優しく接することができない。4年ほど前から信仰生活を送っているというのに、明け方に祈る時間がまともに取れていない・・・

そんな中、TwitterやInstagramで兄弟姉妹の投稿を見るたびに焦ってしまう。でも、今自分が置かれている状況で家事をそっちのけにするわけにもいかず、いろんなバランスを崩してしまい、焦る毎日でした。

いろいろ画策するうちに不調の原因をいくつか悟ることができ、少しづつ調子が戻ってきました。

その原因とは、「うわべだけ感謝して、不平不満ばかりこぼしていること」、「二心(神様以外のものに心が奪われている状態)」でした。

祈れない日があまりにも続いたので、もうダメかもしれないと思い、「こんな状態の私を見て、神様は呆れているだろう。許してもらえるかわからないけど、とりあえず散歩でもしながら感謝しまくろう。今私にできるのは感謝くらいしかないし。」と散歩に出かけました。

ぼーっと景色を見ながら過去の自分を振り返り、どんな時に神様が助けの手を差し伸べてくださったのか、どんな時に神様の存在について考えたのか、また今までにもらった大きな祝福・プレゼントについて考えました。

モヤモヤしながらもしばらく考えていると、今まで気づけなかった小さなプレゼントの数々に気づくことができました。

また、今色々なことが思い通りに運ばずに八方塞がりになってはいるものの(先月の御言葉どおりに)、私が今いる環境、これこそがプレゼントではないかと気づきました。口では感謝しますと言いながらも心の中では不平不満ばかりだったことに気づきました。

また、「お祈りの時間の前にこれをやろう」、「聖書を読もうと思ったけどその前にこれをやろう」とか、神様に向かい合う前にあれこれ理由をつけて他の事に心を向けてしまっていました。

数えきれないほどの小さな祝福を毎日のようにもらっていること。今まで祈りをいくつも叶えていただいたこと。私をびっくりさせようとしているとしか思えないほど、思わぬ方向から祝福が与えられていること。

考えてみれば、生物学・解剖学の知識、スポーツの経験、パソコンのスキル、人前でも緊張しづらいという体質(鈍感力?)、自然豊かな環境で培われた聴力、様々なことが全て生きる道に神様は私を導いてくださいました。この環境こそが最大の祝福ではないか・・・。

それに気づいたとたんに、神様のことを考えるだけで聖霊が注がれ、肌がビリビリする感覚が少しの間ですが戻ってきました。

明け方も1時少し前に目が覚めて、1時間以上祈ることができました。

また、調子の良いときにお祈りの時間に感じていた、脳の前頭葉付近がモミモミされる感覚が戻ってきました。

その数日後、ボイトレのレッスンに行きました。

その日は、先生が今まで色んな角度から教えてくださったメソッドの全体像を復習する機会を与えていただきました。いつも「じゃあ頭から(曲の最初から)もう一回」と言われると、口では素直に返事をするものの「またか」とか「疲れたな」という心が生まれてしまいます。

でもこの日は、「10年かけて教えていただいたことを総復習する時間をいただいた。今日は自分を作りかえる記念日だ。」、「いま、この瞬間、観客はいなくても歌を歌えることが本当に有り難い。本当に幸せな時間だ。」という気持ちが自然と湧き上がってきました。

さらに、よく見せようと思う意識が発声のメソッドの邪魔をすること、何もかも捨て去らないと体を100パーセント使えないことを再確認しました。

まだ完全に調子が戻ったわけではないので、もっともがいていきます。

本日は取り止めのない内容になりましたが、お読みくださり、ありがとうございました。

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