自慢ではないですが、私は小さな頃から結構な割合で「ちゃんとしているね」、「いい子だね」と言われてきました。
これは自分で誇るものは何一つなく、両親の育て方に感謝すべきところなのですが。
社会人になってから、私の中のいい子ちゃんが悪さをするようになりました。いい子でいようとするあまり、物事をフラットな心で捉えられないのです。
例えば、本当はとっても害を受けている人に対して、悪い面を見て見ぬふりし、「あの人はいい人だ」と何度も自分に言い聞かせるようなケースです。
心をフラットにして見られないというのは、客観的に見ることができないということでもあります。
客観的に見ることができないと、その後の判断も異なってくるので命運を分けることにもなります。
自分では本音に蓋をしている自覚はないのですが、いい子ちゃんでいようとするあまり、このような考えになってしまうようです。
この点で私は色々な苦労をしましたが、いや、苦労をしていたのは自分以外かもしれないのですが、最近になってこれを克服できる方法を知りました。
それがお祈りです。
お祈りの時間は、自分の願いや悩みを言葉にして打ち明けるのですが、言葉を紡ぎながらこんな本音があったのか!と自分で自分にびっくりする場面も数多くあります。
そんな時、「こんな事話していいのかな」と思いながらも自分の中に隠されていたドロドロした気持ちを打ち明けると、温かい波長が返ってきて心の中が軽くなり、今まで分からなかったことを悟ったりします。
相手を許したつもりでも全然許せていなかったことに気付いたりもします。
私たちが願い求める神様という存在は、私たちの心の中がドロドロで罪だらけなことをご存知で、それを承知の上で救いの手を差し伸べてくださいます。
なので、人には話せないような気持ちや、やり場のない気持ち、悩んでいること、辛くてたまらないこと、助けてほしいこと、心の底にある願いを打ち明けることは神様の前では後ろめたいことではないのです。
そのような気持ちを子供のように素直に打ち明け、より良く変わりたいと切望するなら、神様は想像もしないところから助け舟を出してくださいます。
思うに、多くの日本人は思ったことを言えないこと、やりたいと思うことができないことで精神的に調子を崩す場合が多いのではないかと思います。
和を重んじること、それはとても尊い行為なのですが、その気持ちが常に前面に来てしまい「今はそんな事言える状況じゃない、そんな空気じゃない」と考えてしまうのでしょう。
私は、その性質が著しく欠けている時期があって、逆に言いたいことを言いすぎて人に害を与えるパターンがよくありました。
そんな時期、周りの人に対し「なんで言いたいことを言わないの?」とばかり考え、理解の気持ちも欠けていました。
言いたいことに口をつぐんで思い悩んだり、精神的に調子を崩していく人のことが理解できなかったのです。
信仰を持った今、人間には霊と肉があることを理解しました。
これらの不調が、霊は言いたいのに肉が言えない、霊はやりたいのに肉はやろうとしないといった不一致によって起こることも理解できました。
子供を見ていると、笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣き、願いが叶わなければなんで!?と泣き叫ぶ、その素直さにはっとさせられることも多いです。
まるで命そのものだと思います。
私たちは、大人になる過程で世間体や協調性を身に付ける一方、命そのものの姿を失っているように思います。
お祈りの時間に子供のように素直に悩みを打ち明けるなら、神様は解決の糸口を示したり、状況を変えてくださったりします。
まさに不条理だらけの世の中で、強かに生きていくことができる唯一の方法だと思います。