子育ても日常も信仰生活の一部

情けない話ですが、私は日常の生活や子育てに追われて義の条件を立てられないと、すぐに周りのせいにしてしまう癖があります。

聖書を読めないのも、お祈りの時間が確保できないのも、仕事のせい、子育てが忙しいせいと考えてしまいます。

義の条件を立てられないと「神様は怒っているかもしれない、呆れていらっしゃるかもしれない」と不安になりますし、とたんに日常の様々なことに支障をきたすことにもなるので、不満やイライラが募ります。

それを周りのせいにして、子供にもきつく当たったりしてしまうのです。

我ながら、情けなさ過ぎて・・・記事として書くのも憚られるレベルです。

先日、そんな母親は人間として、信仰者としていかがなものかと思い、気持ちを改めました。

子供といる時間にケータイばかり見ていたのをやめ(これは何度も神様から諭されていたのですが)、きちんと子供の顔を見て接し、言葉で「大好きだよ、愛しているよ」と伝えるようにしました。

すると、子供はその瞬間から目をキラキラ輝かせ、「なんで今日はそんなこと言うの〜?」などと聞いてくるのです。さらにステップを踏んで踊り出したりするのです。

そして子供は神様が母親として信仰生活を送るように与えてくださったプレゼントです。

どう考えても妊娠すると思えないタイミングで妊娠が発覚したのですが、私の様々な環境(仕事、私生活)にとって最適なタイミングだったのです。

そのように与えてくださったプレゼントである子供に対し、感謝の気持ちが薄れて「信仰生活の邪魔をされる」という考えが生まれていたことが、どれだけ神様を悲しませただろうかと思いました。

私の場合、子供を通して神様の気持ちを教えてもらうことが多いです。私があまりに鈍くて、神様が伝えたいことをすんなりと受け取れないからだと思います。

RAPTブログの御言葉で何度も教えていただいた平素信仰。

ボーッとして時間ばかり過ごしてきてしまったので、今更ですがそれを身に付けたいと思います。

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