つい先日、YouTubeにオリジナル曲を発表したのですが、その内容が信仰者として相応しくなく、工作員(他の教会を乗っ取って自分たちの教理を教え込もうとする者たち)ではないかと疑われることになってしまいました。
なぜこんな行動に至ってしまったのか色々と考えていたところ、神様に近づく信仰ではなく、世の人々に合わせた信仰になってしまっていたと気づきました。
神様の愛に感動して信仰を持つに至ったのに、神様に近づくために不要なものを捨てていくことが不十分な状態でした。
自分の中から今までの誤った考えを残らず捨てることができておらず、その状態で「人々に聴いてもらいたい」ことを目的に音楽を作ってしまったためにこの結果になったのだと分かりました。
RAPTさんの教会に集う私たちは、神様に近づいていくことを目的に集まっています。そしてどこまでも純粋に神様の考えに近づくためには、世の中の考え、つまり今まで良いことと教えられてきたものを捨てなければいけない場面が多くあります。
私は人生の多くの時間を音楽と共に過ごしてきました。その中でも宗教曲が好きで、ルネサンス時代の宗教曲を中心に歌ってきました。
既存の音楽に触れるということは、新約時代の善と悪が明確に分けられていない音楽に触れるということです。
それらが良いものとして頭にインプットされていたために「偶像崇拝はキリスト教においては悪である」と認識していたにも関わらず、それらを完全に裂くことができていませんでした。
具体的には、Ave Mariaの曲に関する投稿を兄弟姉妹が目にするInstagramに投稿していました(人間であるマリアを崇拝することは偶像崇拝に当たります)。
今回指摘してくれた兄弟のように、1ミリも残さず自分の中から悪を無くす努力をしていただろうかと考えると、そこからは程遠い信仰生活であると気づきました。
そんなこともあり、神様の導きによってチャンスをいただいて続けてくることができたボランティア演奏活動も、実はただの自己満足に過ぎず、神様はひとつも祝福して下さらなかったのではないかと思えてきてしまいました。
時間がない中でも最大限のことをお客様に伝えたいと思い、神様に何度もアイデアを求め、霊感やたくさんの聖霊をいただきながらやってきたにも関わらず・・・。
いったんそう思ってしまうと、音楽に関する行動全てが無意味に思えてきてしまい、小声で賛美することすら苦痛になり、まったく歌わない日が続きました。
あまりに絶望に陥ったため、何度も祈り求めて「音楽活動を辞めたいです」と神様に伝えました。
でも、なぜか神様はそのたびに聖霊をくださり、温かく包み込んでくださいました。もはや温かいを通り越して、上半身全体が熱くなるほどです。
そのような日々を過ごし、「そうか、神様だけに聴いていただく音楽をやればいいのか」と思い直しました。
今まで持ち続けてきた雑念(兄弟姉妹が歌えるキーかとか、つまらない旋律になっていないかとか)を全て取り払い、神様が喜んでくださることだけを求めて作ればいいのだと分かりました。
2017年4月の御言葉にも、こうあります。私たちがこの世で磨いた個性才能は天国に持っていくことができると。
◯天国に入って永遠に幸せに生きるために、我々は地上でどんな人生を生きるべきか。
この世で上手く歌うこと、結果を残すことを求めていたから、御心とは違う道に進んでしまったのだと分かりました。
辛い1週間ではありましたが、ここで軌道修正していただけなかったら、今以上に周りの人々から救いを奪う音楽に成り果てていたと思います。
また、RAPTさんが既成の教会から追い出されたとき、このような絶望を(私の感じたものとは比べものにならないほど)味わったのかと思われ、この出来事にも大きな意味があると思えました。